設計とか技術開発とかは「教育」でなんとかなりますか?
みなさん、こんにちは。
何だか昔のことを思い出すみたいなブログになってきました。
以下Twitterより転載
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会社組織だと新人さんが毎年入ってきて、所属部門でその教育にあたることが多いと思う。私はなぜだかその教育係みたいなものを仰せつかることが多くて、これまで何人か設計や技術開発の基本的なことを教えたことがあるのだが、正直言ってあまりうまく伝えられなかったと思う。
結構時間をとって丁寧に説明したりしたのだが、他の人がやっている、放任して野に放つやり方の方がうまくいったりしてなんでだろうと疑問に思っていた。今から考えるに、設計とか技術開発に「勉強」という意味での「教育」がそぐわないのではなかろうかということである。
製品設計なら類似の製品がすでにあったりするものの、設計も技術開発も新しいものを創造することに変わりはない。新しく配属された新人さんに、新しいものをつくらなければ、という動機がないと何を教えても自分の意識と結びつかず、知識が上滑りしてしまうようである。
私の教育のやり方は、どちらかというと設計とか技術開発とは何ぞやというところから始まって、必須のツールの使い方や手法を教えるというもの。一通り教えてから、さあ、簡単な課題から取り組もうというものであった。
その一方で放任主義のやりかたは、CADの操作を数週間練習したあとは、簡単とはいえ実際の設計を任せて図面を描かせるというもの。分からないことが出てきても、聞かれることは答えるものの、基本的に君の仕事だから君がなんとかせよ、というものであった。
この両者の違いとしては、「動機」と「主体性」という言葉で説明できるかと思う。私のやり方では、どうしても受け身になりがちで、自分がやるんだという動機がなく、そして勉強であるが故に自分で調べなければという主体性が発揮できなかったと言える。
特に動機というのは結構やっかいなもので、こればかりは教育ができない。自分でこういうことを実現したいというモチベーションがあれば言うことがないが、なければ教育係に色々言われることは邪魔くさくて避けたいことになってしまう。
一方の放任主義の方はこの動機の問題をどう解決していたかというと、「自分がやろうと思わなければ不愉快な思いをするぞ」という、そういう環境を作りだすことで実現していたのである。実際には言葉としては発したりしないのであるが、その雰囲気は新人さんにとっては結構緊迫感があるものだ。
その緊迫感がある結果、学びに対してもある程度積極的にならざるを得ないという構図になっている。目の前の困難をクリアするためには、嫌がられても誰かに聞きまくって仕事を覚えなければという感じなのだ。
要は強制されたにせよ、自発的にせよ、最初にあるべきなのは「動機」、次が自主的な「学び」であるということ。教育はこれらを補助するものでしかない。なので本当に実力のある人材を育てようと思えば、ツールの使い方や手法をいくら教えてもだめで、自ら学ぶような環境構築が必要ということ。
まあ、つらつらと思いだしたことを書いたけれども、自ら学ぶような環境構築なんぞどうしたらいいか皆目見当もつきませんw 今はそういうことを気にしなくてもよくなっちゃいましたしね。
また思いついたら何か書きます。